ワークライフバランスの要諦
概念の誕生
ワークライフバランス(Work-Life Balance)は、社会的な環境や状況の変化につれて、米国をはじめ欧米先進諸国で1970年代頃から重要性が認識されるようになった概念とされています。
社会的な変化・背景
その変化としては、女性の社会進出、働き方の多様化、育児・介護支援の必要性、長時間労働による健康問題、社会的貧困、少子高齢化、労働人口減少などを挙げることができます。
具体的には、仕事偏重の長時間労働が原因で、心身の健康を害して精神疾患や過労死、自殺に陥るケースや、家庭を顧みなくなって家庭崩壊に至るケース等が看過できないほど社会的に増加したという背景があります。
厚生労働省の「厚生労働白書」によれば、精神疾患を有する外来患者数は2002年の約223.9万人から年々増加をたどり、2020年の586.1万人へとこの20年間で2.5倍強に増加しているとされています(注1)。
また、2025年5月に公表されたある調査では、メンタル不調による仕事のパフォーマンス低下ないし欠勤の経済的損失は、国内全体で年間約7.6兆円(日本のGDPの1.1%相当)に達すると試算されています。
社会的意義
健康を害する(それにより戦力外となる)労働者が増加すればそれは社会全体の経済的損失や労働力減少につながり、家庭崩壊に至る労働者が増加すればそれは少子化による将来的な労働人口減少を招くことになります。
すなわち、ワークライフバランスは、単に労働時間・環境の改善や私生活の充実にとどまらず、社会的な労働力・労働生産性の向上や国力に直結する少子化対策として重要です。
多数派の捉え方
巷では、ワークライフバランスというと、社員等が全員一律に「仕事時間を減らして仕事外時間を増やす」(仕事より私生活を優先する)、あるいは単に「時短労働」と捉える向きが多数派であるように見受けられます。
定義
ワークライフバランスの定義は、
- 内閣府「ワーク・ライフ・バランス憲章」(2007年)
国民一人ひとりがやりがいや充実感を感じながら働き、仕事上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な生き方が選択・実現できる(こと) - 国語辞書 大辞林
仕事と生活を両立させること。特に、それを実現するための企業の施策。勤務形態・休暇制度の多様化、育児・介護の支援、キャリア形成の支援、カウンセリング、退職者の支援などを行う(こと) - Oxford Dictionary of English
the division of one's time and focus between working and family or leisure activities
要諦:本質的な意味
すなわち、ワークライフバランスの要諦は、各個人のキャリア形成やライフステージに応じて、仕事と仕事外との時間的・重点的配分を選択できることにあります。
たとえば、ある個人が「仕事9:仕事外1」の時間的配分を選択できるのも、またある個人が「仕事5:仕事外5」の重点的配分を選択できるのも、いずれも「ワークライフバランス」の実現ということになります。
多数派の誤解
ワークライフバランスの定義に照らせば、巷の多数派の捉え方は誤りであることが分かります。
また、「ワークライフバランスでは成果は上がらない。ハードワークが必要だ」といった意見は、巷の多数派と同じくワークライフバランスの定義を誤解しています。
そのせいで、ワークライフバランスではハードワークできないという間違った認識を持つに至っていると言えるでしょう。前述の通り、各個人がそのキャリア形成やライフステージに応じて「仕事9:仕事外1」のハードワークな時間的ないし重点的配分を選択・実現できるのも、ワークライフバランスです(注2)。
機能させるために
ワークライフバランスを機能させるためには、企業等は社員の労働時間を単に「時短」にするだけでは不足です。時短にするだけでは、いわゆる「隠れ残業」や「サービス残業」をむしろ増やしてしまいかねません。
たとえば今現在12時間かけて処理している業務を8時間内で完了可能にするような、意思決定・オペレーション・情報共有・チーム連携など業務プロセス全体の設計の抜本的な合理化が必要です。
ここにいう合理化の必要性には理論的な裏付けがあります。
- ジョブ・デザイン理論/職務特性モデル(Job Characteristics Model)
業務の効率化や生産性、モチベーションの向上には、ただ労働時間だけ増減するのでなく、業務のプロセスや裁量権、社内のコミュニケーションの仕組みそのものを再設計する必要があるとする理論
この合理化の文脈のなかで、たとえば組織全体でのデジタル化やコミュニケーションの合目的化などを行うことになります(注3)。
新たなトレンド:ワークとライフ双方の捉え方
近年の研究では、ワークライフバランスの他にも以下のような概念が提唱されています(注4)。
- ワーク・ライフ・インテグレーション(Work-Life Integration)
各個人のワークとライフ双方の時間的・空間的な境界線をなくし、双方を統合(インテグレーション)することで幸福度を最大化しようと捉える概念 - ワーク・ライフ・エンリッチメント(Work-Life Enrichment)
各個人のワークとライフ双方の経験やスキルが互いに好影響を与え合い、相乗効果をもたらすと捉える概念 - ワーク・ライフ・クラフティング(Work-Life Crafting)
各個人が小さな工夫(クラフティング)を日々積み重ねて、ワークとライフ双方を主体的に形成していくと捉える概念
これら概念はいずれも、ワークとライフを対等的に捉えて双方の充実を図るという目的が共通していて、ワークライフバランスと相反しません(注5)。
むしろ実務的には、これら概念を相反するものと見て「どれかひとつの概念を導入してうまくいかなければまた別の概念を導入する」ほうが、現場の無用な混乱を招くことになります。
ワークライフバランスを基本形として、ではいかにワークとライフ双方を充実させるかという実践レベルでのアプローチや意識の違い(グラデーション)と捉えるのが妥当と言えましょう。
注1)なお、この統計を単純に「メンタル不調を抱える人数がこの20年間で2.5倍強に増加した」と捉えるのはやや早計かもしれません。この20年間にメンタルヘルスに関する社会的意識が高まってメンタル不調で外来診察を受ける敷居が低くなった結果、これまで数値に表れていなかった人数が表れるようになった「見かけ上の増加」も相応に考慮する必要がありましょう。
注2)現実に「仕事9:仕事外1」を選択できるかどうかはまた別の問題ですが、あくまで定義上は「仕事9:仕事外1」さらに言えば「仕事10:仕事外0」も選択可能でハードワークを妨げるものではないという理解になります。したがって、労働基準法の適用外である経営者もワークライフバランスは実現可能です。
注3)[参照] 戦略的視点#4「ビジネスの変革:DX」/ 戦略的視点#6「チームワーク力の秘訣」
注4)ワークとライフに関する概念としては、これら以外にもたとえば「ワークインライフ」(work in life)や「ワークアズライフ」(work as life)などがあります。ただこの2つの概念でのワークとライフの捉え方は、ワークとライフを対等的に捉えるワークライフバランスとはそもそも異なります。
注5)理論的には、ワークライフバランスとこれら新たな概念の関係はひとつの大きなシステム(インターフェース)で、ワークとライフが双方向に影響を及ぼし合うという包括的な「ワーク・ファミリー・インターフェース」(Work-Family Interface:双方向の境界面)としてモデル化されています。
戦略的視点
ワークライフバランスとは、各個人のキャリア形成やライフステージに応じて、仕事と仕事外との時間的・重点的配分を選択できることをいう。社員等が全員一律に仕事時間を減らして仕事外時間を増やすことではない。
ワークライフバランスではハードワークできないという見方は、ワークライフバランスの定義の誤解から生じる間違った認識である。
各個人が仕事と仕事外との時間的・重点的配分を選択・実現できるのがワークライフバランスであるから、ワークライフバランスはハードワークを妨げるものではない。
ワークライフバランスは、単に労働時間・環境の改善や私生活の充実にとどまらず、社会的な労働力・労働生産性の向上や国力に直結する少子化対策として重要である。
ワークライフバランスを機能させるためには、企業等は社員の労働時間を単に時短にすれば足りるものではなく、その業務プロセス全体の設計を抜本的に合理化する必要がある。